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母国語と母語の違いとは?混同するのはもう止めませんか

こんにちは。めいげつです。

日本は歴史的に単民族国家と言われますが、もはやそうとも言い切れません。外国籍をもつ人口は350万人に迫る、立派な移民大国になっています。コンビニなどで外国人労働者を見かけない日はないといっても過言ではないでしょう。

今回は、こうして日本が多様化するにあたって僕が非常に気になっていることの一つ、「『母語』を使うべき場面で『母国語』を使うのはやめた方がいいよ」という話です。「母語」と「母国語」の違いにも触れながら深めていきたいと思います。

「母語」と「母国語」は漢字一文字しか違わないのでけっこう混同している人が多いけど、この2つは全く違う言葉ですよ。

※「日本人が~」と記事タイトルの主語が大きくなりすぎていることは先に謝っておきます。すみません。

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「母国語」使いすぎじゃない?

みなさん、「母国語」って言葉よく使っていませんか。主に、「その人が幼い時から話していて、一番上手に扱える言語」といった意味で。

会話ではそこまで頻繁に使う単語でもないですが、ニュースやドキュメンタリーなどのメディアでは、たまに聞くこともある程度かも知れません。

正直にいうと、僕はこの「母国語」という言葉の乱用が問題だと思っていて、使う時はかなり気を使わなければならないと思っています。

ちょっと例を見てみましょう。たとえば日本経済新聞のこんな記事。

ここでは「母語」を使っていて途中までは良かったのですが、最後に突然「母国語」が登場し、さらに「母語」と「継承語」が混ざって訳が分からなくなっています。タイトルでも「母国語」になってるし。

もう一つの例がこちらの「ポケトーク」。74言語に翻訳ができるという夢のような道具ですが、公式サイトにはこんな文言が。

ソースネクストの「POCKETALK(ポケトーク)」は、 74言語対応の夢のAI通訳機。互いに自国語のまま対話できる双方向の音声翻訳機です。

poCketalk(ポケトーク) – 翻訳機を超えた、夢の「通訳機」(太字筆者)

ここでは「母国語」ではなく「自国語」となっていますが、「国」が入っているので同じことです。こうしてみると、コンセプトが少しズレていないかと心配になります。

「74ヶ国語」ではなく「74言語」とちゃんと書いているだけに惜しい。

「母語」と「母国語」の意味と違い

僕が非常に問題視している「母国語」という単語。国語辞典では、「母国語」の意味がこう定義されています。

母国語 – 自分の国の言語。-デジタル大辞泉

母国語(ボコクゴ)とは – コトバンク

そう、母国語とは「自分の国の言語」。ここでは自分が生まれた国の公用語や国家語と言っていいでしょう。英語でいうofficial languageとかnational languageにあたります(もっとも、official languageは国だけでなく国連やEUといった組織の場合にも使います)。

そして母国語と見た目のよく似ているのが、「母語(ぼご)」という言葉。「母国語」から漢字一文字抜いただけの同じ単語に思えますが、実際のところはだいぶ違います。

辞書での「母語」の定義はこんな感じ。

《mother tongue の訳語》人が生まれて最初に習い覚えた言語。

母語(ボゴ)とは – コトバンク

母語は「国」という字が入っていないことから推測できるように、その人の母国に関係なく、純粋に幼い頃から使ってきた言語を指します。英語のmother tongue、あるいはドイツ語のMutterspracheかフランス語のlangue maternelleの直訳だと思われます。

あくまで個人的な印象ですが、日本ではこの「母語」と「母国語」がかなり混同されてると思えてなりません。

本来「母語」というべきところで「母国語」を使っている人が多い。先ほどの日経とポケトークの例を見る限り、僕がもっている印象もあながち間違いではないかと思われます。

繰り返すようですが、僕はこの種の「母語」と「母国語」の混乱は非常に良くないことだと思っています。「この違いを意識せずに混同しているってことは、日本人は言語に対して潜在的に偏見を持っているんじゃないか」と思えるくらい(考えすぎだとは思いますが)。

それ程デリケートな問題をはらむことなのです。

そのシンプルな理由を以下、綴ってゆきます。

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母語と母国語が違うこともある

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路地を行き交う人々の、一体何人が非日本語ネイティブなのだろう? cegoh / Pixabay

1981年出版とかなり古いですが、『ことばと国家』という本にこんな一節があります。

母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを載せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切り離し、ただひたすらに、言葉の伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに、母国語すなわち母国のことばは、政治以前の関係である母にではなく国家に結びついている。

田中克彦(1981)『ことばと国家』岩波書店

そう、「母国語」とは、自然発生的なものである言語と人工物である国家を、ナショナリズム的な思想で結び付けた言葉です。

もちろん「母語」は母だけに結びつくものではなく(いくら「母語」と書くといってもね)、両親二人とも、そして子供が育つ地域等のコミュニティが関わっています。

母語を母親だけに結びつけることに問題点はありますが、本記事の趣旨からいささかはずれるので、ここではその話はしません。

たしかに、日本で生まれ育った日本人の大多数にとってはおそらく、母国語=母語が成立するかと思います。我らが日本国の(事実上の)公用語は日本語で、国家語も日本語と言って差し支えないでしょう。

それで日本人の多くは、その公用語ないし国家語を自分たちの母語として習得しているでしょう。よって彼らの中では母国語=母語という図式が成立します。

でも母国語と母語が一致しない人だって、世の中にはたくさんいますよ。

アメリカやオーストラリア等移民国家の子どもだったり、エストニアのロシア系住民だったり、インドの少数民族の人だったり。こういった場合は自分の母語が自分の生まれ育った国の言語(=公用語や国家語)ではないことが多いです。

しかし遠い海外の出来事と侮るなかれ。導入でも触れた通り日本はもう移民大国。もしかしたら、日本を母国と思っていても、日本語が母語じゃないケースがあるかも。

そしてこれからも、日本にも外国から観光客や移民としてより多くの人が来るでしょう。そういった人々の中には、ここで紹介したような「母語=母国語」が成り立たない例だってあるのです。

「母国語」の乱用に潜む偏見。乱用は避けてほしい

本来「母語」を使うべきところで「母国語」を使うことは、「全ての言語には公用語/国家語としての地位がある」とか「その人の生まれた国の公用語/国家語がその人の母語である」という潜在的な偏見が見え隠れします。

「一民族一言語」、まさにナショナリズムの根本的な概念ですね。

しかしこんな偏見が間違っているということは、世の中に存在する言語の数(数千あるとも言われます)と国家の数を比較するだけでもすぐにわかること。

複数の国で公用語となっている言語がいくつかある一方で、地域語としての地位さえ与えられていない言語だって多い。「全ての言語には公用語/国家語としての地位がある」言説は、現実に全くそぐうていません。

伝統的に単民族国家と呼ばれてきた日本にもすでに相当数の移民がいますし、これからも多様化が進むことでしょう。それを踏まえて、アイデンティティに関する偏見を持っていることは、非常に厄介な問題を誘発する恐れがあります。意識してようが無意識だろうが同じこと。

たとえばロシアから来たウクライナ語を母語とする人に「じゃああなたの母国語はウクライナ語なんだね」と言ったら違うと言われるでしょう。

それにその後の会話もウクライナ語を指しているつもりで「母国語」と言い続けていれば、聞いている相手は非常に当惑するはず。「明らかウクライナ語(=母語)の話をしているはずなのに、なぜロシア語(=母国語)ばかり指してるんだろう」といった具合に。

※とくにロシアとウクライナ語を選んだ理由はございません

日本への移民が最も多い中国だって、公式に認知されているだけでも55もの(非中国語系の)民族語があるんです。中国人の全員が「中国語」のネイティブだと言い切れるんでしょうか?

まあ上の例はあくまで推測に過ぎないものの、「母語」と「母国語」の問題は非常にセンシティブな誤解を招きうる表現だということが分かって頂けるかと思います。

こちらのBBCのドキュメンタリーで紹介されているインドの国家語はヒンディー語ですが、マラーティー語やグジャラート語など多数の(それも結構大きな)地域語が話されています。ヒンディー語を母語としない人にとっての母国語とは、一体何語なのでしょうね?

言語は、自分のアイデンティティを形成する大きな要素です。多様化が進むにあたって、他人のアイデンティティに関する偏見を持つのはまずい。 偏見は、僕らが発する言葉一つ一つにも宿ります。

たとえ相手が日本人でも注意が必要かもしれないですね。法的にかつ当人のアイデンティティ的に日本人でも、もしかしたら母語が日本語じゃないかも。「日本人は日本語を(流暢に)話せて当然」というのも、もう古い考え方になるのではと思います。

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最後に

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以上、「母国語」という単語の乱用は避けた方がいいと思う、という話でした。やはり「母語」という言葉を広めるのが妥当かと思います。

しかし、「母語」って少し使いづらい言葉ですよね。何となく学術的な響きがあってお堅く聞こえるから。「母国語」の方がより強く話し言葉に根差していて、「国」を抜いただけで一気にカタくなります。それは認めます。

ただそれを差し置いても、「母国語」の乱用が目に余るので注意したいところです。

その点英語のnative languageやmother tongueとはよく言ったもので、日本語の「母語」とも違い話し言葉でも言いやすい印象があります。「母語」という単語も、英語のnative language並みに広がってくれると良いと思うのですが。

ちょっと記事の趣旨とはずれるんですけど、先ほど引用した『ことばと国家』 の中に、こんな一節がありました。

俗語が国家の手によって国語にされたとき、そこに作り出される文法は、もはや、ことばを扱いながらことばとは別の、作法や儀礼の書物に一歩近づいている。そこでは、おのずと生れ、内から湧き出てくる言葉が、「話し手の介入を許さぬ」「すでにできあがった」「国のことば」として「文法によって与えられる」ものへと造りかえられる。文法教育とは、権威によって母語をおどしつけ、自らのこころでものを言わせないようにし、ことばで書くということは、自分の外の、なにか決められたものによってしかおこなえないと思い込ませるしつけのことである。

田中克彦(1981)『ことばと国家』岩波書店

ことばというのが「文法によって与えられる」ものだという感覚は、かなり多くの人が共有しているのではないでしょうか。

たとえば、何かとことばの間違いを指摘する嫌ーな人や、外国語の文法を学ぶ人など。

国の名前を冠した「〇〇語」に紐づけられた永久不変の文法とか語法があって、僕らはそれに沿って話さねばならない、みたいな感覚。

この感覚自体が悪いというわけではないけど、これがことばというものに対する感度を狭めているような気はしますね。

それでは、またの機会に。

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5件のコメント

  1. Clay

    韓国の日本統治時代から先祖代々日本に住んでる在日コリアンのほとんどは母語は日本語で母国語のコリアンは話せない人も多いです

    また生まれが日本でも外国でも乳幼児期から親の事情で外国で育ち国籍は日本でも母語が日本語でない日本人は多くいます。一部は母国である日本に後から引っ越しますが警察官が日本人=日本語母語話者と決めつけているので外国語訛りのせいで外国人と思われ外国のパスポートを所持してないために連行されてしまう事もよくあるようです。

    日本に一度も住んだ事のない日本国籍の保持者もたくさんいます。

    そろそろ日本国籍=日本語が母語=日本在住と言う固定観念は捨てるべきですね。

    • めいげつ

      Clayさんはじめまして。コメントありがとうございます。
      まさにその通りです。連行されている例なんかは特に深刻ですね。
      僕も偉そうなことを言っていますが、「日本人=日本語ネイティブ」の固定観念はかなりしっかりと刻み込まれていて、捨てるのに館あり努力がいりそうです。

  2. 須尋

    単純に「母語」という単語が浸透していないだけでは。現に私もこの記事を読んで初めて知った単語ですし。
    大概の日本人にとって「母語」=「母国語」であり使い分ける必要が無かったのは記事内でも仰っていますし、「母語」≠「母国語」である点以前に「母語」という単語を知りさえすれば自然に使い分けされていくと思います。
    偏見が〜という部分は少し邪推のしすぎに感じました。

    • めいげつ

      須尋さんはじめまして。コメントありがとうございます。
      そうですね。日本人にとっては今まで「母語」=「母国語」だったので、この使い分け自体に慣れていないはそうだと思います。
      確かにみんなが「母語」という言葉を知って使うようになればおのずと母語と母国語の混同も消えていくかもしれません。
      ただ偏見というのは必ずしも悪意があって生まれるものではなく、単純に知らないがゆえに生じることもありますので、細かい点かも知れませんが「母語」という
      言葉が広がって行けばいいなと思います。
      しかし「母語」という単語のカタさはどうにかならないものでしょうかね。

  3. マルゾー

    おもしろいですね。

    私も、大昔、「ことばと国家」読んで、ふむふむと思いました。
    田中氏だったと思うのですが、母国語という言葉は、「母・国語」なのか「母国・語」なのかというのがありました。

    前者について。
    まず、「国語」という概念が、極めて日本的であるというのが第一点。我が国では、「国語」=日本語であるがために、大きな混乱はなく、おっしゃるような混同が起きています。

    でも、そういう国は珍しく、一般的には「公用語」としての「国語」があるわけですね。ただ、それはあくまで「公用語」であって、「国語」と呼んでしまうのは、ちょっと変な気がします。じゃあ、母・公用語というはどうかといえば、それもちょっと違うだろうし、そもそもが「母なる」言語しゃないだろう、と思うのですね。

    続いて後者。
    「母国・語」だとして、フランス語、ドイツ語、日本語などはいいとして、カナダ語、スイス語なんかは論理的に矛盾が生じてしまいます。アメリカ語、メキシコ語もおかしいですよね。中国語にしたって、細かくみれば北京語であり、広東語や四川語とは違うものです。

    というわけで、「母国語」というのは、論理的にも非常に問題をはらんだ言葉であり、また、田中氏がいうように、生来のことばに、「国家」という後天的な概念を孕ませるもので、忌避すべきものではないかという意見には、同意するものです。

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