数年前に南ドイツのミュンヘンを訪れた際、近隣のダッハウという都市にある元・ナチスドイツの強制収容所を訪れる機会を得ました。
その時のようすと、それから考えたことをここでまとめました。写真の枚数は少ないけれど、現地がどんなようすなのかを見てみたい方にどうぞ。
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ダッハウ基本情報
ダッハウ(Dachau)は、ドイツ南部のバイエルン州にある都市。ミュンヘンの北西18キロほどの場所にあります。人口は約4万人。
第一次大戦後政権をとったナチスによって、いくつかある強制収容所のうちの一つが、ここダッハウに建てられました。
ナチスの強制収容所といえば、ポーランドのオシフィエンチムにあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、同じくポーランドのマイダネク強制収容所が有名。
ですがその他にも、ポーランドやドイツを中心にヨーロッパ各位置に造られていました。
ちなみにダッハウ元強制収容所は、数あるナチスの強制収容所のなかでも最初に造られたものだそうです。
ダッハウ元強制収容所にて
ダッハウという都市そのものは、静かな町といった感じです。
収容所じたいはダッハウの町のはずれにありますが、僕らがミュンヘンで乗ったバスは、収容所からそう遠くない場所に停まってくれました。
収容所の西側にある入り口から入ります。
「労働は自由にする(Arbeit Macht Frei)」。ゲートを通ろうとすると目に飛び込んできます。
アウシュヴィッツの門にもある、もはや収容所を象徴する標語です。僕はこの標語のことは知っていたので、最初見たときに「ああ、これがあの有名な」と思いました。
ちなみにこれはナチスの造語ではないそうですが、この一文を見るとすぐさまナチスの収容所が頭に浮かびますね。
敷地内はものすごく広いです。ものすごく開放感があります。
最初はこのコの字型の建物へ。収容所に連れてこられた人々はまずここに集められ、身ぐるみはがされ、そこから体を洗ったのだそうです。
今はこの建物で常設展示がされています。
一日のルーティーン。
- 午前4時:起床(冬の間は5時)
- 午前5時15分:点呼
- 午前6時~正午:労働
- 正午~午後1時:昼休憩(入館と退館の行進を含む)
- 午後1時~6時30分:労働
- 午後7時:点呼
- 午後8時45分:就寝
- 午後9時:就寝、消灯
これだけみているとちゃんと7時間睡眠をとる時間を与えられているように思えますが、本当にそうだったのかなあ。
……と思ったものの、当時のベッドを再現したもの(後述)を見れば、なるほど時間はあっても寝れねえよ、思います。
ただ、よしんば睡眠をちゃんととれていたとして、それ以外の環境も『夜の霧』や『シンドラーのリスト』で描かれていたような惨憺たるものだったのでしょう。
労働とか、昼休憩の間の行進とか。現代日本に生きる僕らが想像するような労働環境だったなんてことはまずないでしょうね。
収容者の出身国別の人数。やはりナチスの征服地域や東欧が多いですね。
こうしてみると、ヨーロッパの色々なところから連れてこられたんだなと思います。
ナチスの強制収容所というとユダヤ人のイメージがありますよね。
現にユダヤ人は大勢収容されていたし、シオニズム運動の結果建国されたイスラエルではナチ党幹部の裁判等が行われてきました(アイヒマンはあまりに有名ですね)。
ですが、収容されたのは何もユダヤ人だけではありません。彼ら以外にも、社会主義者や障害を持つ人、ポーランド人などのスラヴ人も多く収容されていたようです。
第一次大戦前後の、基本的な食糧の価格。左から順に卵一個、ビールグラス一杯、ポテト1ポンド。
1914年から1918年にかけて高くなって行って、1922年に跳ね上がり、1923年には……えええええ!?!? と想像を絶するほどのインフレに。
大戦後のドイツが、酷いインフレに苦しんだことは、歴史を学んだ人にとっては常識でしょう。山のような札束をかかえる人の写真は有名ですね。
その後マルクが廃されて、新しくライヒスマルクが導入されたのも、大学受験で世界史を選択した僕にはなつかしい話。
続いては、常設展示のある建物から少し離れたバラック(宿舎)へ。
バラックはいわば生活空間。水飲み場があったり、厠があったり。どれも粗末なものでした。
下水道ってちゃんと整備されてたのかな……?
当時のベッドが再現されていました。
こんなふうに木を組み立てただけの粗末なベッドに、何十人も押し込まれて寝ていたのですよね。
バラックとは別の建物ですが、遺体を焼却するのに使われた火葬炉もありました。
次は常設展示の建物の裏手にあった牢獄へ。牢獄も、けっこう衝撃的でした。
牢獄なら多少環境が悪くても良いかと思われそうですが、そもそも強制収容所じたい、罪のない人たちを恣意的に送り込んだ場所。
そういう人たちを非人道的な環境でこき使っていたわけで、そこ場所でどんな人が牢獄に入れられたのか分かったもんじゃありません。
カポーを怒らせたとか、そんな理由で入れられたりとかもあったんじゃないだろうか。
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ダッハウ元強制収容所を訪れた感想
……と、ダッハウの元強制収容所を訪れたようすを多少端折ってお送りしました。数年前のことなのでかなり記憶が薄れている部分もあったんですが。
ここを訪れた最初に抱いた感想は、「きれいにしてあるな」ということ。博物館のようだった、というのが正直な印象です。
一目見ただけで、ストレートにショックを受けさせるようなものはさほどありません。まあ遺体をそのまま置いておいたり、壁なんかについた血などをそのまま展示するわけにもいかないでしょうが。
実際に収容されていた人が酷い扱いを受けているのを直接映した写真があるわけでもないので(そもそもナチ側がわざわざ撮って保存していたとも思えないし)。
とはいっても、上のベッドとか独房の展示を見てショックを受けないのはさすがに薄情かと思いますがね。
ただ上には書かなかったんですけど、おそらく解放軍が撮った死屍累々たる(文字通りです)写真はあまりにショックが大きかったですが。
確かに博物館のようではあったんですが、多少「きれいに」してあるとはいえ、こうした過去の非道を忘れさせないような努力は絶対に必要ですよね。
いや、むしろ「きれいに保つ」ということが、この記憶を保存していくにあたって必要なのかもしれない。
こういう記憶って、放置してしまえば少しずつ、けれど確実に消えて行ってしまうものですし。
「きれい」ってのはある種絶え間なく人間の手が加わっていることだから、それが自然に任せていては風化してしまうのに抗うことなのかも。
人間の本性がどれほどの極悪非道にまで至れるのかは、同じ人間として生きる僕らにとっては、言ってしまえば「生きる上で避けられない」こと。
だって、この非道に導いたのが「我々アーリア人」と「アーリア人ではない奴ら」というふうに人間を「こちら側」と「あちら側」に分断する考え方で、それは人間の本性に本来備わっている性格だから。
人間を生まれた国や民族なんかで分けるナショナリスト的思考もそうだし、何なら「私の友達」と「そうでない他の人々」というわけ方も根は一緒でしょう。
悲しいかな、これは本来、生きる上で必要なことなんですよね。
こういう分断って、「誰が自分に害を与えないか」とか「誰が自分に良いことをしてくれるか」に基づいて人を分けることで、それで生存の可能性を高めることだから。
それは「自分に害を与える人」を排除する方向にはたらく。実際に害を与えているかどうかは別として。その究極が強制収容所だったり、あるいは戦争そのものなんでしょう。
なので、ナチスだけ責めても終わりませんよね。「敵」と戦って味方を守る行為をしている人は、まあ同類ってのは言い過ぎだけど、同じ道の上にいる。
……書いてて自分の耳が痛くなってきた。これは自戒でもあります。僕だって人間だもの。
とにかく若いうち、特に学生の間にこういう場所を訪れる機会を得られて良かったと思います。そしてこうして思い返してみるのも。
そういえばヘルシンキの書店で、ホロコーストの否定についての本が売ってたのを思い出しました(直接否定した本なのか否定について扱った本なのかは知らないけども)。
表紙にダビデの星がでかでかと描かれた本だったように記憶してます。
ドイツ含めヨーロッパ諸国の大半ではホロコーストの否定は犯罪だったと思うけど、北欧だとその辺どうなっているのかしら。
ドイツの戦争関連では、南ドイツのニュルンベルクという都市も訪れました。
ダッハウが戦争の加害を象徴する町なら、ニュルンベルクは被害を象徴するといえるかな。
……いや、ニュルンベルクはナチに好まれ党大会が何度も行われた都市なので、両方? いやニュルンベルク裁判もあるし、あまりシンプルにカテゴライズできないか。
なのでナチスの国家高揚に利用されず、戦争で破壊された町ということなら、被害を象徴する町としてはワルシャワが適任ですかね。その後の復興も含めて。
というわけで、長々と色々書きました。これにて。
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