今回は海外の情勢とか経済についての本。白水社から出版されている、『〈賄賂〉のある暮らし:市場経済化後のカザフスタン(岡奈津子著)』
ツイッターで偶然見かけて、中央アジアという絶妙に面白そうな地域を扱ってる&面白そうなタイトルで衝動的に手に取った。テーマはずばり〈賄賂〉。
一般の人々も拘わる賄賂というものについて、非常に示唆に富む良書だった。以下盛大にネタバレを含むので、まず内容を読みたいという方は注意されたし。
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カザフスタンという国
この本のテーマとなっているカザフスタンは、中央アジアに位置する国。
中国とは国境を接していて、日本から見ればちょうど中国のむこう側にあるような感じ。
面積は世界第9位という広大な国で、海に接しておらず内陸国の中では世界最大。
(ちなみにカザフスタンの南にあるウズベキスタンは周りを内陸国に囲まれているため、二重内陸国と呼ばれます)
1991年のソ連崩壊までは、ソ連を構成する共和国の一つでした。それがソ連崩壊に伴って独立し、資本主義の市場経済が導入されました。
カザフスタンは資源が豊富で、1人あたりGDPは中央アジアで最大。
「非公式な問題解決手段」
「賄賂」というと、大物政治家とか大企業の役員が不正に行うイメージがある。
ただしカザフスタンでは政治家に限らず、役人や教師、また保護者など一般の人たちが、しかも日常的に、賄賂を贈り受け取っているという。
ここでいう賄賂は、「賄賂」という日本語の単語のイメージにぴったり合致するものではなので、「非公式な支払い」とか「非公式な問題解決手段」と呼ばれたりする。
ようするに本来支払いを要求されない(されてはいけないはずの)状況で、何かと便宜を図ってもらったり、何かモノをくれたり、手続きを簡略にしてくれたりする、そのためにお金を渡すことを意味する。ある時は自発的に、またある時は半ば強制的に。
カザフスタンではないけど、僕が隣国ウズベキスタンに行ったときに似たような経験がある。
警備の人にお金を渡してミナレットに登らせてもらったり、駅員さんが黙って僕の重い荷物を運んでくれた後にお金をせびられたことも。
おそらくこういう行為も、ここでいう「賄賂」にあたるんだろう。
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賄賂の使い道
賄賂が使われるのは、
- 公職につくため
- 軍隊への入隊
- 公的手続きでの順番待ちのスキップ
- 大学での良い成績
- 卒業論文の購入
- スピード違反などの見逃し
- 医師による証明書の発行
……などなど多岐にわたる。
なんだか日本で暮らしていると信じられないような語句が並んでいるけど、こういう「商品」の購入行為はかなり常態化しているらしい。
本書の49ページにある公的機関での「賄賂」の使用率や内容を並べた表は、何回見ても壮観だ。
もちろん日本でも何か自分にしてくれた人に対しお礼をしたり、医師への心づけも行われているよう。だけど、公職や卒論がカネで買えたり、犯罪行為のもみ消しというのはやっぱりスケールが違う。
でも、カネが介在せずとも、親しい人への何がしかの融通は、日本含め西側諸国でもけっこうあるでしょうね。
ただ、カザフスタンでも贈収賄は違法。贈収賄が発覚した政治家が逮捕されることもあるようだけど、一般人のレベルではそこまで問題にされていないようだ。
コネ中心からカネ中心社会へ
旧ソ連時代、共産主義時代はモノが少なかった。
物があふれ、金があればいろいろなものの中から品質の良いものや自分好みのものを選べる資本主義社会と違って、選択肢などほとんどない。
そう、お金の力が弱かったのだ。
そういった社会で重要になるのはお金よりも、親しいつながりのネットワーク。「カネよりコネ」なのだ。物がコンスタントに欠乏していたので、特定の職業や役職についている親しいにお願いして、モノを融通してもらう。
そこにお金は介在しないので、その人が困った時に今度は自分が助けるというかたちで、いわばフェアなトレードになると。
ただ1991年にソ連が崩壊して、急速に資本主義市場経済が導入されて、経済がガラッと変わってしまった。崩壊前はコネに頼っていたこういう融通にもカネが入り込むようになった。
もちろん現在でもコネは有効のよう。親しい相手に掛け合うことで賄賂にかかるコストを相場より低くしたり、コネがないとそもそも払えない賄賂を可能にしたり、より地位の高い人につないでもらったり。
それでもやはり「共産主義時代よりもカネの重要性が上がった」というのは、現地に暮らす人の共通認識のようだ。
こういう非公式な手段は一様ではない。親族のコネとカネは、状況や便宜の内容によって器用に使い分けられているらしい。
しかし何でこういう風になったのか? これにはカザフスタンの文化や、またシステミックな要因もあるのだけれど、詳しくは本書にて。
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資本主義社会での価格と賄賂
個人的にちょっとした衝撃を受けた一節がこれ。アセリというのはインタビューを受けた女性の名前。
他方、アセリが産科医に渡した一〇〇ドルには、特別なサービスに対する対価という意味合いがあることにも注目しておこう。アルマトゥ市内の公立病院で出産した別の女性も、特定の産科医に事前に渡したカネを医師の「正当な報酬」と考えていた。彼女は、第一子を出産した際に五〇〇ドル、第二子の時には七〇〇ドルを非公式に払ったが、標準以上のサービスにそれなりのコストがかかるのは、「西側ではふつうのことでしょう」、と言う。少人数の病室、きめ細かで丁寧なケア、評判の良い医師の氏名などに特別料金を課すのは、資本主義のスタイルだというわけだ。
『〈賄賂〉のある暮らし:市場経済化後のカザフスタン』196ページより抜粋。太字筆者
カザフスタンではより良いサービスを受けるために、患者が医師や看護師に袖の下を渡すことがあるという。しかもそれを払う側も、「正当な報酬」と見なしていることが多いようだ。
しかしこれは、払っている額の多寡だけを見れば、「より高品質なサービスはより多くのお金がかかる」のと何も変わらない。
ただその「より多くのお金」が、公式に支払われるのかそうでないか、というだけだ。
僕たちは賄賂や袖の下というものをある種毛嫌いしているし、それは犯罪だしやっちゃいけないことだ(ばれたら当然逮捕される)。
けれど、自分らの資本主義社会では、単純に高品質なサービスには「キレイなワイロ」がすでに価格に組み込まれていて、それをみんなが受け入れているだけのことではないのか。そんな気がしてきた。
別に「日本でも皆多かれ少なかれ賄賂を払っている」なんて言ってるわけじゃないんだけど。
でもまあ、ウチの社会に賄賂は全くありませんよ、みたいな顔をするのはおそらくナイーヴなんでしょう。
何か良いことをしてくれた人にはお礼をしたくなるし、お礼をの品(あるいはカネ)を渡してくれる人を無下にできないのも人情。賄賂もその延長線上にあるものなんだろう。
でも、賄賂は犯罪ですし、カネのある人がカネに物を言わせるせいで必要な人が必要なモノやサービスを受けられないんなら、その社会は是正されるべき。だってそんなんじゃ、税金を払う意味も、ひいては国家が存在する意義もないじゃんね。
まとめ
というわけで、本書『〈賄賂〉のある暮らし:市場経済化後のカザフスタン』は、「非公式な問題解決手段」としての「賄賂」を考えさせてくれる良書だった。
もちろん、賄賂を正当化しているわけではない。ただ「考えさせてくれる」。「賄賂はいけない」という否定一辺倒ではなく(もちろんいけないけど)、賄賂について考えるための新しい角度をくれる。
本書は賄賂をやっていいとかダメだという話ではなく、それによって回っている社会の事情と、そこに生きる人々の生活を描き出している。そこからどんな結論を引き出すかは読者次第。
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