「言語や文字というものにはある種のイメージが付きまとう」ってことは、それを頭で理解しているかはともかく、みんなある程度気づいていると思う。
アフリカーンス語にはどうしてもアパルトヘイトのイメージが付きまとったり(BBCの英文記事にそんなことが書いてあった)、キリル文字を共産主義と結びつけてしまう人もいる(残念ながら僕もこれは否定できない)。一部の過激な人は、ハングルを見ただけで嫌悪感を催すようだし。
東京をTokyoと書いたり、「日本の早稲田から、世界のWASEDAへ」という標語があることからも窺えるように、非ラテン文字言語を使う僕らには、ラテン文字を使うという行為には「世界へ開かれる」的なイメージがあるのかも(ほら「『世界の』WASEDAへ」って書いてあるし)。
……と感じたのは『複数形のプラハ』(阿部賢一著、人文書院)の冒頭を読んだから。偶然市の図書館のサイトを見ていたところたまたま目にして、そのタイトルから思わず手に取ってしまった。
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マルチリンガル都市プラハ
多言語社会ヨーロッパでは、一つの都市が言語ごとに違う名前で呼ばれることがよくある。チェコ共和国の首都プラハがその典例で、チェコ語とスロバキア語ではPraha(プラハ)、ドイツ語ではPrag(プラーク)、英語やフランス語ではPrague(プラーグ、発音は少し違うけど)、ロシア語ではПрага(プラーガ)となる。
もちろん今のチェコがハプスブルク帝国領だったときは「Prag」だったし、チェコスロバキアと現在のチェコ共和国では「Praha」呼ばれる。
ただし20世紀初頭から第一次大戦以降プラハの主権がドイツ語話者からチェコ語話者に渡る時代にあって、この年の名を「プラハ」と呼ぶか「プラーク」と呼ぶか、それだけである種政治的な立場を表明することになってしまったわけだ。
今でこそ英語やフランス語を話している時は「Prague」、ドイツ語を話している時は「Prag」、チェコ語やスロバキア語を話している時は「Praha」と幾分ニュートラルな態度をとれるけど、当時はそうもいかなかったんでしょう。
というわけで、プラハは言語的にも非常に複雑で多層的な社会(チェコ語とドイツ語話者以外にもいただろうし)だったし、ミクロ視点では現在ますます多層的になっている。
『複数形のプラハ』ではそういったプラハの多面性を、この20世紀初頭から第二次大戦前にかけてこの都市で活躍した人の人物(とその他大勢の証言)を取り上げている。
カフカやリルケ、レオシュ・ヤナーチェクはもちろん、ボフミル・クビシュタやリハルト・ヴァイネル、インジフ・シュティルスキーなど聞きなれないアーティスト達まで。
出自も異なる彼らは一人一人違った形でプラハという町、ひいてはチェコという国家やチェコの民族を見ていた。
時間を超越した観光地の、時間を超越してない風貌
プラハ城内にある聖ヴィート大聖堂が完成したは1929年だという。聖ヴァーツラフの没後1000年に合わせて解放されたのだそう。え、そんなに最近? 大聖堂の建造開始はカレル4世の時代だから、それこそ着工から完成まで600年ほどかかったことになる(途中ほぼ放置されたり火災が起きたりしたそうだけど)。
それで19世紀末に聖ヴィート大聖堂の建築が「再開」されたのだけど、そこで本書が取り上げたのが写真家のヨーゼフ・スデク(Josef Sudek)。建設途中にある聖ヴィート大聖堂現場を多く写真に収めた写真家。
僕ら観光客は教会なんかに行くと上を見上げて写真を撮ったりとある意味神聖な部分に目が行きがちだけど、スデクはまだ大聖堂が未完成だから(つまり永続しない)こそある、大聖堂を作っている人々の姿や建築資材なんかが散らかっている、ある種「俗っぽい」側面を撮っていた。
僕なんかは歴史が好きだから、歴史ある町に行くのが楽しいし、何百年とか何千年もの間残っている建物を観るのも好き。たぶん観光客はたいていそうだと思う。つまりは静的なものを求めているわけ。とくに教会なんてのはその最たるもの。僕らはいまを生きざるを得ないから、そういうある意味で時間を超越したものに惹かれるのかなあ。
それでも、やっぱり自分が好きな観光地の見えない側面を見られるのはとても面白い。修復業中とか教会に足場が組んであるのは今でも(運がよければ笑)見ることはできるけど、柱の土台の断面図なんてほぼ見る機会ないでしょ。
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都市は生き物だよ、ってことについて
巻末にある筆者がカレル大学に留学していた時の体験を綴った筆者の述懐がとても感慨深い。
つかの間の「プラハっ子」を気取って、フス像の前で待ち合わせをした回数は数知れない。そのせいもあってか、この広場にかつて聖母マリア柱像がフス像と隣りあって立っていたことを知ったとき、より正確に言うと、一九一八年にマリア柱像が倒された写真を見たとき、何ともいえない衝撃を感じたことをおぼえている。
阿部賢一著『複数形のプラハ』220ページより
一時的な滞在者とはいえ、日々眺めている光景がきわめて表層的なものであり、眼前にない都市の痕跡に想像力を働かしていないことを痛いほど自覚した瞬間だった。
阿部賢一著『複数形のプラハ』220ページより
そう、都市は生き物で、動的なものなんだ。南百年、いやもしかしたら何十年何年という短いスパンでも都市の姿は多かれ少なかれ変わるのだろうな。
僕はプラハには既に3度訪れていて、その3回とも旧市街広場を訪れている(もちろんフス像も見ている)。けど、その旧市街広場にかつてマリア柱像があって、それがチェコスロバキア独立の高揚の中で倒されてしまったことを本書で初めて知って「まじかよ」と思った。
そういえば近くのデパートで昭和の僕の地元の街を移した写真が飾ってあったけど、本当に同じ町かと思うほど全然似ても似つかなくて面白く思ったし、逆に自分が生まれ何年も過ごしている町であっても、案外その過去の姿を知らないものだなと思った。
Thumbnail Image taken from いらすとや
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