読書好きな人はたくさんいる。短期間に何十冊何百冊も読むのファナティックもいれば、冊数は少ないけれどじっくりゆっくり読む人もいる。何を隠そう僕も本好きのひとりだ。
人が本を読んでいるとき、あるいは文字を読んでいるとき、脳の中では一体何が起こっているのだろう? こうした疑問に答えるのがメアリアン・ウルフ著・小松淳子訳『プルーストとイカ』。
一見支離滅裂なタイトルだけれど、要は「読むことに関する本」だ。
読書という行為について、脳の発達という観点から詳しく見ていける面白い本だったので、感想や引用を交えて紹介したい。
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文字を読むことは、めちゃくちゃ複雑な作業だ。
普段自分たちは何気なく文字を読んでいる。本を読むだけでなく、
- 町中のサインや道路標識
- 契約書
- テレビのテロップ
……などなど。自分たちの生活は文字であふれかえっている。
子どもの頃に文字を一生懸命習い、なかにはその苦痛の記憶がある人もいるだろうが、普段の生活のなかで文字を読みつつそれを思い起こすことはほとんどない。
要するに、「特に何の苦労もなく」文字が読めるのだ。
そんな感じなので、「文字を読むこと」はそんなに大した仕事じゃないんだろうと思いがちだ。実際僕がそう。脳の中に読字という機能を担う特定の部位があって、それを使いこなしているにすぎないと。
だが、そうでもないらしい。本書によれば文字を読むことは、脳の複数の分野にまたがる、とーっても複雑なプロセスなのだという。
本書によれば、単語を見てから600ミリ秒という短い間に脳の後部、前面、そして側面の色々な部分が賦活するのだそう。
単語を見てから最初の100ミリ秒までに、
- 他にしていたこといっさいから注意をそらす
- 注意を新しい焦点に移す(文章に注目する)
- 新しい文字と単語に注目する
という3つの動作が脳内で行われる。その3つそれぞれの作業がすべて脳の違う領域が担当している。最初の100ミリ秒だから一瞬だ。
また、本を読む人の脳内では「辺縁系」という部位が活性化し、読んだものに関して諸々の感情を感じるようになっているとのこと。これは先ほどの3つの作業を行う領域とはまた別。
自分たちが普段、何気なくこなしている「読字」という行為。一日何度も、下手すれば一回当たり数十分または数時間も文字に触れていることを考えれば、それだけで脳がものすごいハードワークをこなしていることが想像できる。
特にライターや記者、作家のような「書くこと」をなりわいとしている人なら尚更なのだろう。
もちろん、脳は特定の作業をやればやるほど効率よくこなせるようになるのでハードワーク度は幾分下がっていくんだろうけど。
ちなみに文章を読んでいる時は、常に同じ方向に目を動かしているのではないらしい。読んでいる時間の10%は「戻り運動(=既に読んだところに戻って前の情報を拾い上げる運動)」にさかれるらしい。
文章を読む過程で今一つ文意を読み取れていなかったり、矛盾を解決できていなかったりして、少し戻って読んだという経験はみんなあると思う。この判断が、単語を見て250ミリ秒の時間でなされると。
となると、一日一時間、ないし30分の読書だけでも脳がどれだけの判断をしていることか。
文字や言語によっても使う脳の部位が違う
言語オタクな僕にとってこの上なく面白い話があった。言語(というか文字や表記法)によって使う脳の部位が違う、という話がそう。
たとえば、中国語の読み手は、読んでいる時に他の言語の読み手よりも「運動記憶領域」が賦活するそうだ。
これは漢字を何度も書いて覚えることから来るらしいけれど、過去の学習経験をずっと後まで引きずるらしい。つまりこれは純粋に言語学的な要素に起因するんじゃなくて、どうやって文字を学習したかがこういう違いにつながるんだろう。
となると、同じく漢字を使う日本人も、漢字を読む時は運動記憶領域が活性化するのだろうか。
もう一つは、アルファベットのような表音文字、漢字のような表語文字では脳の部位が違うみたい。両方を使う日本語の読者は、漢字だけを読む時は中国語と同じ、仮名文字読む時はアルファベットの読み手に近い使い方をする(ただし完全に同じではなく、前頭前野の賦活が弱いらしい)そうだ。
またどうやら、漢字と仮名交じり文を読む時の特別な経路があるらしい。
日本語は表語文字と表音文字を併用するというエクストリームな言語なので、それだけ脳に要求される仕事も複雑なようだ。
まあでも、表語文字(あるいは表意文字)と表音文字では脳の部位が違うのは何となく想像できる。表音文字が純粋に音韻だけを書き表すのに対して、表語文字は意味とはイメージを想起させるものだし(ある程度音も表すんだけど)。
文字が脳内で想起させるものが違うのなら、たとえば英語vs中国語で使う脳の部位が違うのも納得ではある。
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文字を読むことと言語の「音」の理解は相補関係
文字、とくにラテン文字みたいな表音文字は、言語の「音」と絶対に切り離せない。
なぜなら、表音文字は一字一字が文字通り音を表すものだし、まずそもそも表音文字というものは、特定の言語が扱っている「音」を「これ以上分解できない最小単位」に分解して、その最小単位一つ一つを一文字一文字に当てはめたものだから。
筆者によれば、この作業を本当の意味で最初にやったのはギリシャ人だったそうな。
というわけで、文字を覚えるためには「音韻」への深い理解が必要だし、逆に文字を覚えれば音韻への理解が深まるってこと。音韻だけじゃなくて、形態素とも相補関係にありそうだ。
特別に音韻の訓練をさせた子供は、そうでない子供に比べ、音素認識力はもちろん読字の習得で優位に立てるという研究結果があるらしい。読むことと音声は別のように見えて実はつながっている。
このことは第一言語を学習中の子どもだけでなく、もう母語を習得して、外国語を学んでいる大人にも適用できる気がする。といっても、自分の個人的な感覚&経験に基づいた適当な推察に過ぎないけれど。
複数の外国語(英仏芬露)を学習してる自分の感覚では、どうもリーディングの量をこなせてない言語は、たとえば耳から入ってくる新しい単語を理解しづらい傾向にある気がする。
僕は英語はもちろんフランス語でもある程度リーディングはこなしているが、その2つに比べるとフィンランド語のリーディングがどうしても足りてない。
その差がリスニングの時に顕著に出てくる。ニュースラジオなんかで新出単語(既存の単語の組み合わせでも良い)が出てきたときに、理解できるまで何回でも聞き直すけど、その回数がやっぱフィンランド語の場合に多い気がする。フィンランド語よりも習熟度が低いロシア語ならなおさら。
本書で詳しく語られる(ここではあまり触れないけど)ディスレクシア(読字障害)を持つ子どもの例も示唆を与えてくれる。どうもディスレクシア持ちの子どもは「単語を音節や音素に分解する」のがどうも苦手らしい。
ディスレクシア限らず、読字を学んだ大人とそうでない大人でも、こうした「単語の音の分解」能力に差が出るのだと。
リーディングとリスニングどちらが大事かという話があるが、個々のケースはさておき、どっちも大事なんだぜ。
読書の神髄とは? 想像とテキストの超越
本のジャンルに限らず、読書をしているとよく「脱線」が起こる。
たとえば、作者の体験談を読んでいる時に自分の個人的な経験とつなげて考えてみたり、作者の意見を読んで自分はこう思うとか考えたり。
脱線というとちょっとネガティブなニュアンスがあるけど、作者によればネガティブだなんてとんでもない。筆者は、脱線することは、「与えられた情報を超越」することだと言っている。
「超越」とは、要するに、直接には書いてないことを思考すること。
読書の目標は、著者の意図するところを超えて、次第に自律性を持ち、変化し、最終的には書かれた文章と無関係な思考に到達することにあるのだ。
メアリアン・ウルフ著 小松淳子訳『プルーストとイカ』36ページ
筆者はまた、聖書の解釈のいかんによって、多くの血が流れたことも引用している。北方十字軍とか30年戦争とかだよね。
こうやってテキストを「超越」できるようになることは、ざっくり言えば書いてある情報プラス個人的な解釈ができるってこと。人みんなそれぞれ違った解釈ができると。
そして、「読み手を自立へと向かわせる」。他人の教えをわざわざ受けずとも(それも時には大切だけど)、自分で独自の解釈ができ、読書能力が向上するにつれ自分でどんどん読書を進めていくことができる。
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まとめ:文章を読む人、書く人、言語を学ぶ人みんな必読の書です
というわけでここではあまり多くに触れられなかったけれど、本書『プルーストとイカ』は、読字(リテラシー)と脳の進化、ひいては人類史にまで広がる複雑な世界を見せてくれた。
かつてソクラテスは、読字の拡大に対してかなり批判的だった。ソクラテスが著作を一つも残さなかったのはあまりにも有名。
さて、識字人口はおそらくかつてなく広がっている今(ソクラテスの心配とは裏腹に)、ソクラテスのような批判を向ける先は一体何だろう?
まあ聞くまでもなく、インターネットでしょう。
インターネットの急速な普及、あとたぶん資本主義の精神のようなものもあわさって、思考そのものを含めたあらゆるものの効率化やスピードアップが要求されてるのはおそらくみんな感じていることでしょう。
ハイパーリンクで世界中の文書や画像etcが際限なくつながったおかげで、情報へのアクセスの飛躍的に簡易化したし、その速度も上がった。ネットユーザーは今や無限の情報に簡単にアクセスできる。
そんな現代の世界でこれからを生きる僕らのような若い人たちに、筆者はこう警告している。
一般の若い読み手たちは、画面に表示される情報の即時性とうわべの包括性にすっかり慣れてしまって、批判的な努力も、与えられた情報以上のものを得ようとする必要もなく、すべてを手に入れられるようになってしまったために、文章の分析やより深いレベルの意味を探ることを時代遅れと思い始めているのではないかと思っている。
メアリアン・ウルフ著 小松淳子訳『プルーストとイカ』329ページ
記事に含まれる情報の包括性はSEOの基本だけど、なんだかネットに情報を書いている側としてなんだか責任を感じる。
文章を読むことに比べれば楽なインターネットへのアクセスに味を占めてしまった大勢の生徒たちは、自分の頭で考えることをまだ知らないのかもしれない。視野が狭まって、素早く簡単に目と耳に入ってくるものしか見聞きしないので、このコンピュータという最新の高性能な箱の外で物を考えねばならない理由がないからである。
メアリアン・ウルフ著 小松淳子訳『プルーストとイカ』330ページ
ネット検索かパーソナライズ広告、あとはQアノン等々のエコーチェンバー効果で熟成された陰謀論などの存在を考えれば、かなり正鵠を射た指摘に思える。
さらに5G回線の登場で文字だけでなく動画も簡単にDLできるようになるから、文章をじっくり読むによる「思考の深まり」のメリットがどんどん薄くなっていく懸念は捨てきれない。
こういった技術の進歩にはたくさんのメリットがあるのはもちろんなんだけど、やっぱり物事には長短あるからその両方を認識しておかないと。
……というわけで、脳の発達ひいては文明の発達という観点から読書を考えられる『プルーストとイカ』は、文章を読む人、書く人、そして言語を学ぶ人みんなにおすすめです!!!
追記
本書では、子供の言語の発達や読字学習についてもっと詳しく興味深いことが書かれてるけど、ちょっと色々な事情で省いでしまった。
こういう分野に興味がある人は、詳しくは実際に本書読んでください。僕には小さい甥っ子がいるので色々な示唆を得られた。
Thumbnail Image taken from いらすとや
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