北欧神話と言えば、トールやロキといった多神教の神々、そしてラグナロクなどの用語になじみのある人も多いと思います。
けど、それはスウェーデンやアイスランドなどゲルマン(ノルド)系の北欧の話。フィンランドは少し違います(まあフィンランドにはスウェーデン語系もいるし、何なら言語の問題じゃないんだけど)。
そう、フィンランドの神話は上記の「北欧神話」ではなく「カレワラ(Kalevala)」と呼ばれ、世界観も登場人物(?)も全く違います。
当方フィンランド語を学習し、フィンランド留学もしたけれども、『カレワラ』についてはリライト版を読んだのみだったので、いささか恥ずかしく思い、完全版(という言い方が正しいか分からないけど)を読んでみました。
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『カレワラ』とは?
フィンランドの国民的叙事詩カレワラ(フィンランド語ではカレヴァラKalevala)とは何でしょうか。以前の記事でも紹介したのですが、ここにも書いておくことにしましょう(ちなみにこの洋書すごくおすすめです。入手しづらいけど)。
さてカレワラとはフィンランドの国民的叙事詩なのですが、これはフィンランド南西部出身の医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot)が編纂し発表した文学作品。
リョンロートは1800年代前半にフィンランドの東側からロシアにまたがるカレリア地方を周り、現地の口承文学を収集しました。それに彼自身が手を加えて一本の物語に完成させたものが『カレワラ』です。
大気の娘イルマタルから老人として生まれた賢者ヴァイナモイネン(Väinämöinen)、鍛冶イルマリネン(Ilmarinen)、魔術と剣に優れる向こう見ずな青年レンミンカイネン(Lemminkäinen)、北の大地ポホヨラの老女夫人ロウヒ(Louhi)などの登場人物たちが、天地創造から南北の闘争等を通じ、キリスト教の到来に至る物語を紡ぎ出しています。全五十章。
『カレワラ』はフィンランドの独立を語る上で欠かせないもの。1800年代後半に当時のフィンランド大公国でナショナリズムが高揚した頃には、シベリウスやガッレン=カッレラのようなフィンランドの著名な芸術家たちにインスピレーションを与え、フィンランドの独立にも影響を及ぼしたそう。
最初の邦訳
『カレワラ』はフィンランドの叙事詩で、もちろんフィンランド語で書かれています。フィンランド語を勉強しているなら言語で読めとのお叱りを受けそうですが、なにせ、
- 『カレワラ(新カレワラ)』の成立は少なくとも160年以上前で、よって現在では使われない単語や変化形がある
- 文学的要素が強く語彙のレベルが高い
ということがあり日本語訳を読むことに。いちおう対訳本もあるにはあるようなので、そのうち手にいれようかな。
『カレワラ』の邦訳本には、1937年の森本覚丹訳(岩波・講談社学術文庫)、1976年の小泉保訳(岩波文庫)、リライト版の荒牧和子訳や坂井玲子訳、そして子供向けのもの(岩波少年文庫、小泉保訳)があります。
僕が今回選んだのは最初の翻訳である森本覚丹訳(講談社学術文庫版)。
その理由は、これが日本初の翻訳ということ、故森本氏がシベリウスの曲に感銘を受けてフィンランド語を独学し『カレワラ』を翻訳したという話を聞き、その熱意に感動したことです。外国語の叙事詩の翻訳なんて並大抵の努力じゃできないよ。
結論からいうと、この森本訳はかなり名訳だと思います。かの北原白秋もお墨付きを与えたくらい。この記事でのいくつか引用したいと思います。
それに訳者はフィンランドのみならぬ北欧やギリシア、ロシアの神話などにも詳しいようで、豊富な解説が理解の助けになるし、おかげで知識が広がります。
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正直言うとそこまでいい話じゃない『カレワラ』
※ここからはネタバレを多分に含みます。一応言っておきます。
まあリライト版を読んだことがあったので話の流れは分かっていましたが、読後の感想を一言で言うと「あんまりいい話じゃないな」ということ。
ポホヨラの女主人ロウヒはある種悪役の立ち位置ですが、けっこう同情してしまいます。ヴァイナモイネンを介抱した見返りにサンポを作らせたものの、その後サンポのお陰で豊かになったポホヨラを妬まれ、サンポを奪われ、挙句の果てにサンポは砕けてロウヒは破片しか持ち帰れない。
また、レンミンカイネンに主人を決闘で殺される、後述しますが娘2人を嫁にとられる(うち一人は合意の上だけど)ことなど。
そして、『カレワラ』特にひどいのが女性関係。ヴァイナモイネンとの対決に敗北し助けてもらう代わりに妹アイノを差し出したヨウカハイネンに始まり、その後のアイノの死なんてまさにそう。
「おん身の魔法の呪文を反し
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (上)』80頁より
我れを降伏せる呪文を解き給えや!
おん身は我が妹アイノを獲給わん、
我れは我が母の娘を捧げまつらん。
彼女はおん身の室をはたき、
箒もて床を掃き、
牛乳の壺をよくととのえ、おん身の衣服を洗うべし。
彼女はおん身のために金色の布を織り、
またおん身のために蜜の菓子を焼くべし」
元はと言えば自分はヴァイナモイネンに魔法で挑んだヨウカハイネンですが、敗れて沼に沈められて吐いたセリフがこれ。彼女の同意なんてありません。ヴァイナモイネンはこれを受け入れアイノに求婚するものの、アイノは拒絶し挙句に死んでしまいます。
これだけに留まりません。ロウヒの娘を娶ったものの彼女が死亡したあと再び嫁を貰いに行き、拒絶されるもその前妻の妹を略奪するイルマリネンの話などなど。
なんだかどうしようもない話です。まあこういったどうしようもない話は叙事詩にはつきもののような気がしますが(スパルタのヘレネ強奪から始まったトロイア戦争とか)。
また、『カレワラ』の中でアイノと一二を争うほど有名なのがクッレルヴォの悲劇。先ほどあげた話のような「どうしようもない」感じではありませんが、彼のやその結末も全く「いい話」ではありません。
『カレワラ』出版当時のフィンランドの人々は、彼の運命とフィンランドの歴史いそのものを重ね合わせたのでしょうか?
魔法がうずまく『カレワラ』
それと、カレワラのもう一つの特徴として、良くも悪くも激しさがありません。これは訳者の森本氏も序文で書いています。というのも、『イリアス』『オデュッセイア』など他の叙事詩と違い戦争の描写があまりなく、あったとしても簡潔に済まされるか、そもそも血みどろの争いがそれほどないこと。
『カレワラ』での争いと言えば、魔法とか呪術のようなものがほとんど。先ほど引用したヨウカハイネンが妹を渡すと約束するシーンも、もとはといえば彼と賢者ヴァイナモイネンの魔法(歌)での決闘から続くものです。
レンミンカイネンも、北の大地ポホヨラの大主人と魔法による決闘をします。
さればポホヨラの大いなる子は、
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (下)』71頁より
呪文をもて狼を創り、
肥えし牡牛を喰わせるために、
魔の歌をもて狼を創りぬ。
いと元気なる、レンミンカイネンは、
白き兎を歌いて創り、
その兎は狼の広く開けたる、
口のまわりを跳びまわりぬ。
さればポホヤの大いなる子は
歌いて鋭き口の犬を創り、
その犬は兎に咬みつき、
その斜視を千々に引き裂きぬ。
いと元気なる、レンミンカイネンは、
歌いて栗鼠を創りしが、
栗鼠は棰の上にて戯れ、
犬はそれを吠えるのみ。
鍛冶師イルマリネンも、鍛冶師だけに熔炉や鞴などの道具は使いますが、ほとんど魔法使いのようなものです。彼が創った不思議な道具「サンポ」も、その材料はまるで魔女の作る媚薬ですよ。
「されどもしおん身にして、
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (上)』137頁より
白鳥の白き羽毛より、
妊娠まざる仔牛の乳より、
牝羊の毛の一本より、
大麦の一粒よりサンポを鋳造り、
それの多彩の覆いを鍛え給わば、
我が娘をおん身に与えん、
もはや「鋳造る」の意味とは……?
(訳者註によれば「獲ることのできない材料」ということだそうで、アイスランドの「エッダ」にも同様の描写があるらしいです)
ちなみにサンポ(Sampo)とは食料や交易品といった豊を生み出す神器といったようなもので、作中では特に形状は明かされません。見た目からなにまで謎な不思議な道具です。
そういえば、『カレワラ』は天地開闢のシーンもまたユニークです。まあ創世の場面が魔術的というか神話的になるのは必定ですが、旧約聖書のような荘重さはなく、何だか素朴さがあるんです。
卵は水にまろび落ち、
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (上)』44頁より
海の波間に転げこみ、
卵は千々に割れぬ、
卵は微塵に砕けぬ。
(中略)
割れ卵の下の破片よりは、
今や固き大地が作られ、
割れ卵の上の破片よりは、
空の高き穹窿が作られ、
卵黄よりは、その部分よりは、
今や輝かしき陽の光が生じ、
卵白よりは、その上の部分よりは、
いと明らかに輝く月を生じ、
雑食なりし卵の中身は、
今や大空の星となり、
黒かりし卵の中身は、
空に浮ぶ雲となりき。
海や風はもともとあって(というかその起源が描写されない)、イルマタルの膝に鳥(小鴨)が産み付けた卵から大地や大空といった部分が生まれ出たと。なんだかフィンランドの農民文化が反映されていると思えませんか。
サンポについての物語も、
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (上)』39頁より
ロウヒの魔法の呪文の物語も在りき。
ついにサンポは古くなり、
ロウヒは魔法と共に消え、
ウィプネンは歌いつつ滅び、
レンミンカイネンは放蕩にて逝きけり。
これは第一章ですが、キリスト教あるいは近代という時代の到来を暗示させるようなフレーズ。この物悲しい雰囲気が、なんだかフィンランドや北の国っぽいような気がしますね。
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まとめ:神話はおもしろい
神話の登場人物が半分神さまだったりで人知を超えた力を使う、とかはよくある設定ですが、「老いた賢者の奏でる音楽を太陽が聞きに来て、それが山の中に隠されてしまう(第四十七章)」となると話のスケールがまるで分からなくなります。
近代以前の人々の想像力というのは大したものですね。何というか、現代のフィクションとはまたセンスが違っている気がする。このある種の自由奔放さが神話や叙事詩の面白さかと思います。
フィンランド独立の機運を高めた『カレワラ』。フィクションでもおなじみの北欧神話とはまた違った「もう一つの北欧神話」を、皆さん是非読んでみて下さい。
それよりワイナモイネンは諫めて止めぬ、
森本覚丹訳『カレワラ―フィンランド国民的叙事詩 (下)』221頁より
この水の生れの英雄は訓して禁(と)めぬ、
すべての若き人々に、
また年老える人々に、
金にその身を曲げるなと、
銀に首(こうべ)を下げるなと、
こんな風な教訓じみたフレーズもあったりする。
今回僕が読んだ『カレワラ』は森本訳でしたが、どうも通販では入手しづらいみたい。なので上には新しい小泉訳を載せました。
いきなり叙事詩をフルで読むのはちょっと……という方は、リライト版または岩波少年文庫の『カレワラ物語』がおすすめです。
おまけ:歌で楽しむカレワラ
『カレワラ』は、現フィンランド&ロシアのカレリア地方で受け継がれてきた口承文学をまとめたもの。口承文学なので、『イリアス』や『平家物語』と同じく、文字ではなく歌という形(つまり人々の記憶と声が頼り)で受け継がれてきたのです。
そんな「歌われた『カレワラ』」を聞いてみたくありませんか。
Kalevala laulettunaというYouTubeチャンネル上で、カンテレの伴奏とともに『カレワラ』を歌っている動画が2020年8月から順次アップロードされています。第一章がこちら。
カンテレの音が美しくて、心が洗われます。
『カレワラ』の原文はフィンランド文学協会、Project Gutenberg、Project Runebergなどのサイトで見れますので、歌詞を眺めつつ聴いてみてはどうでしょう。
参考までに、第一章の最初の方だけ引用しておきます(カレワラの本文はもちろんパブリックドメインです)。
Mieleni minun tekevi, aivoni ajattelevi
lähteäni laulamahan, saa’ani sanelemahan,
sukuvirttä suoltamahan, lajivirttä laulamahan.
Sanat suussani sulavat, puhe’et putoelevat,
kielelleni kerkiävät, hampahilleni hajoovat.Veli kulta, veikkoseni, kaunis kasvinkumppalini!
Lähe nyt kanssa laulamahan, saa kera sanelemahan
yhtehen yhyttyämme, kahta’alta käytyämme!
Harvoin yhtehen yhymme, saamme toinen toisihimme
näillä raukoilla rajoilla, poloisilla Pohjan mailla.Lyökämme käsi kätehen, sormet sormien lomahan,
lauloaksemme hyviä, parahia pannaksemme,
kuulla noien kultaisien, tietä mielitehtoisien,
nuorisossa nousevassa, kansassa kasuavassa:
noita saamia sanoja, virsiä virittämiä
vyöltä vanhan Väinämöisen, alta ahjon Ilmarisen,
päästä kalvan Kaukomielen, Joukahaisen jousen tiestä,
Pohjan peltojen periltä, Kalevalan kankahilta.
美しい韻を踏んだ見事な詩ですね。
1フレーズあたり8音節のリズム(フィンランド語は日本語のようなモーラ言語ではなく音節言語)で、美しい脚韻を踏みながら流れていきます。ぜひ聴いてみてください。
Thumbnail Image by stroycentrsp from Pixabay
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