今回は言語、そして人類学に関する本。ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)。
少し前ツイッターのタイムラインかなんかで偶然見かけて、積読リストに入れていたのを今回手に取った。とある界隈(言語学ではない)ではそこそこ知られている本のよう。
その界隈では彼らの考え方の方に重点が置かれているようだけど、言語オタクな僕は、ピダハンたちの話す言語について主に感想を書きたいと思う。
(言語だけでも書きたいことがたくさんあるので、それ以外を含めると記事が以上に長くなってしまうから)
※注:この記事でページ数を表記する場合は、特に注意書きがなければ本書のページ数である。
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世界には本っ当に色んな言語がある
言語オタクとして色々な言語(の文法や発音、単語)を学んだり、色々な言語について調べていると、「人間の(言語を作り上げるための)創造性にはおそよ際限ってものがないんだろうか?」という気になる。
それくらい、いろいろな言語がこの世界にはあるのだ。
以前、ブログ記事にて「エクストリームな言語」と称して、こうした創造性の賜物のような言語をいくつか紹介した。↓の記事である。
↑の記事では、例えばこんな言語をとりあげた。
- 母音がない文をつくれるチェコ語
- 82もの子音をもつコーカサスのウビフ語
- 逆に音素数が極端に少ないパプアニューギニアのロトカス語
そして、我らが日本語についても書いた。なんせ4種類もの表記を使い分けるからね。
世界には数千の言語があると言われるけど、その中にはこうした「エクストリームな」特徴を持つ言語もあるわけだ。
僕ら日本語ネイティブからしたら、母音のない文どころか母音のない単語を作ろうなんてクレイジーが過ぎる。
そして、この記事でとりあげる「ピダハン」達が話す言語は、先の記事でとりあげたロトカス語のような、「最も音素が少ない言語」の部類に入る。
かつ、ピダハン語は音節構造も単純で、子音が2つ続くことは決してないようだ。母音がいくつも連なる例はいくらでもある。
さて、音素が少なく音節構造も単純だとどうなるかというと、1つ1つの単語が長くなる。
短い単語を作ろうにも、手元に使えるカードが少ないせいで、同音異義語がとても多くなってしまうためだ。
ロトカス語について調べた際は文章のサンプル等が見つけられなかったが、本書には単語や文のサンプルがたくさん用意されている(ので単純に楽しい)。
いくつか例をあげてみる。
- xibipíío
- baósaí
- xigaboopaáti
- xaisigíai
- Kóhoibiíihíai
- xisitoáopi
アキュート・アクセント(右肩上がりの短い線)がついた母音は高い声調で発音される(ピダハン語には高低の2つの声調がある)。
……正直、どの単語も同じように見えるし、ぱっと見で発音できそうもない。表記は比較的最近著者が作ったものだから規則的なんだけど。
ピダハンの男性がピダハン語を話している動画がYouTubeにあがっていたので、見てみるとピダハン語がどういう響きをもつのか分かりやすいと思う(42秒あたりから話始める)。
キャプションによれば、カメラの後ろでピダハン語と英語をしゃべっているのは著者のエヴェレット氏だそうだ。
特筆すべき特徴が盛りだくさん
それでこのピダハン語、僕らには想像もできないような特徴をいくつも持っている。
もちろん音素が少なすぎるのもその一つなんだけど、その他にも、
- 「こんにちは」「ありがとう」といった単語がない
- 同じ単語でも、子音が入れ替わったりする
- 音素をさらに制限した叫び声やハミングで意味を伝達できる
- 「右」「左」という単語を持たない
- 色や数を表す単語がない
- 関係節がない
まずは1。こういった単語は「間投詞」とか「感動詞」と呼ばれる類のものだけど、「交感的言語使用(p.22)」というらしい。「主として社会や人間同士の関係を維持したり、対話の相手を認めたり和ませたりとった働きをする(p.22)」ものだそうだ。
挨拶とか感謝の表現といえば、言語オタクに限らず外国語を学ぶときに、おそらく一番最初に習う表現のはず。自分も非英語圏を旅行するときは、この辺の表現は必ず押さえていく。
こうした表現は文化によって使う頻度が異なるらしい(そして個人差もある)けど、どうやらピダハンは全く言わないらしい。
特にピダハンの生活様式が色濃く出ているのが「おやすみ」の表現。
夜、ピダハンが著者の小屋を去る時には「寝るなよ、ヘビがいるから」と言うことがあるそうだ。
ジャングルは危険だらけでおちおち眠り込んでいられないというのもある。ただそれより重要そうなのが、ピダハンは僕らのように「まとまった時間眠る」のをしないことだ。夜の間、かなりの時間をおしゃべりなんかに費やしているそう。
また著者によれば、「睡眠を少なくすることで「自分たちを強くする」ことができる」と信じているふしがあるそうだ。
ヨーロッパでも中世(だったかな)の人は夜中に一度起きるとずいぶん前に本で読んだことがあるけど、そもそも長い時間眠らないのか、彼らは。
(そうそう、この本だった)
そして2つめ。とある語句のとある子音が別の子音に置き換わることがある、ということ(それでも同じ単語なのである)。
本書に著者がピダハンの「先生」に、Tí píai「わたしも」という語を繰り返させるシーンがある。その「先生」は何度か繰り返すのだけれど、このTí píaiが、
- Kí píai
- Kí kíai
- Pí píai
- Xí xíai(xは声門閉鎖音)
というふうに変わっていったという。また「頭」という単語も、xaxaxaí、kapapaí、xapapaí……などのバリエーションがあるようだ。
著者によれば、ピダハン語は音素こそ少ないものの、いくつもの「音節の長さ」と声調を駆使していて、子音が変化することは幅広く容認しているという。
言語学でいう自由異音の範囲が、恐ろしく広いのだ。
となると、音節の長さや声調の方が重要ということか。これが、3つめの叫び声やハミングの話に繋がってくる。
著者はピダハン語には5つの「ディスコースのチャネル」があるという。通常の子音と母音を使った語り方に加え、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語りだ。
たとえば叫び語りは文字通り遠くにいる相手に叫ぶときに使う方法で、ただでさえ少ない音素をさらに制限して行う。たとえば母音はaだけ、子音はkかxしか使わない、といった具合に。
著者が紹介しているのは、雨が降りしきる日に2人が川を挟んでいるシーンだ。
その片方が、Kó Xiáisoxái. Baósaí「おーい、イアーイソアーイ(女性の名前)、服」という意味で、Ká Kaáakakáa, kaákaáと叫んだのだが、その意味がきっちり伝わったそうだ。
……何てこった、という感想しかでてこない。
そういえばスペイン領のカナリア諸島にエル・シルボ・ゴメロという口笛を使った言語があるが、こうした「特殊な」発声方法が4つもあるということか。
日本語でもささやき声で話す時は有声音が無声音になるように、音素を制限した話し方はあるけど、ピダハン語の叫び語りほど音素を制限したりはしない。
しかし、雨がザーザー降る中でも意味の伝達ができるのだから、言語としては優れた特質と言えるかもしれない。
ちなみに「ハミング語り」とは文字通りハミングで意味を伝達させるやり方。音の長さと高低を使えば意味を伝達できるので、ハミングでもコミュニケーションがとれるということだろう。口に何かをほおばっているときにも使えるらしい。なんとも便利なことだ。
そして4。ピダハンは右左という単語の代わりに、「(川の)上流」「下流」「川に向かって」「ジャングルのなかへ」という言葉で方向を支持するらしい。
ガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』に、東西南北を使うグーグ・イミディル語の例が出ていたのを思い出す。
僕らがやるように自己を基準にして「右」「左」と方向を指示するのを「相対的支持枠(エンドセントリック・オリエンテーション)」というらしい。
対して東西南北や川の上流下流のように、体の外部にあるものを基準にするものを「絶対的支持枠(エキソセントリック・オリエンテーション)」と言うそうだ。まあ東西南北という「モノ」は存在しないが。
日本語や英語ではエンドとエキソの両方を使うけど、ピダハン語やグーグ・イミディル語ではエキソしか使わないと。
僕のように海に近い町に住んでいる者にとっては、「海の方」「内陸の方」「駅の方」みたいな指示枠を日常的に使うようなものだろう。右左を使わずに。
ちょっとどころか、かなり不便そうだ。
確かにこういうエキソな指示枠しかない言語を使っていれば、方向感覚に優れるようになるのかも知れない。
実際、ピダハンを別の町に連れて行くと真っ先に川の場所を訪ねるそうだから、川というものが彼らの中で大変重要な位置を占めているのだ(ちなみにピダハンたちはアマゾン川の支流であるマイシ川の流域で暮らしている)。
文化の言語に対する影響
最後の2つ(5と6)は、ピダハンの文化に強くかかわってくる。
ピダハン語は、純粋に色を表す単語を持たないらしい。以前はあると思われていたが、実は純粋な色名ではなさそうだ、ということだ。
「赤」を意味する単語だと思われてたのが、実は「血のような」かもしれない、ということ。
色の名前というのは実は非常に抽象的なもので、他の形質が異なる様々なモノに共通に使うことができる。それは数も同じだ。
そしてこれらの特徴が、次の「関係節がない」とともに、ピダハンのメンタリティに関わってくる。
関係節とは、文の中に従属的な文を入れ込む構造のこと。英語ではwhichとかthatといったマーカーを使うし、日本語では文の後ろにそのまま名詞をくっつけたり、「~と」で接続したりする。
I think he bought some apples yesterdayとか「昨日僕が買ったリンゴ」みたいな具合。この関係節が、ピダハン語にはないのだ。それを著者が実感したシーンを引用してみる。
コーホイは息子のパイターに向かって、「Ko Paitá, tapoá xigaboopaáti. Xoogiái hi goo tapoá xoáboi. Xaisigíai(おい、パイター、針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ)」と言ったのだ。
ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』p316より
このセリフの意味するところは「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」だ。それが3つの文に分解されている。
英語や日本語で「ひとつの文や句が別の文に入ってくること」をリカージョンと呼ぶ。
「昨日買った○○を持ってきて」レベルのリカージョンは僕らも日常的に使う。ピダハン語ではそれができない。
今この項目で挙げた「色や数を表す語がない」のと、「関係詞≒リカージョンが起こらないこと」は、著者によれば、ピダハンたちのメンタリティで説明できるらしい。
それが「直接経験の原則」だという。
直接体験の原則とは、「語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する(p.184)」という原則。
実際に見たとか感じたこと、ないしは誰かが直接見た/感じたこと以外は語ることが出来ないと。
数というのは抽象化された存在なので、実際に見聞きすることができないから、語られないというわけか。色名も同様。
関係節は新しい情報を提供する「断言」が含まれないため、直接体験を重んじるピダハンの言語では関係節使えないとのこと。この理屈はいまいちピンと来ないが。
またリカージョンの関連で、Either Bob or Tom will come.「ボブかトムのどちらかが来る」のような文も成立しないそうだ。これはなんとなく理解できる。
だとしたら、「トムは来ない」とも言えないのだろうか?
「おい、ダン。イエスはどんな容貌だ? おれたちのように肌が黒いのか。おまえたちのように肌が白いのか」
ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』p316より
わたしは答える。「いや、実際に見たことはないんだ。ずっと昔に生きていた人なんだ。でも彼の言葉はもっている」
「なあ、ダン。その男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもってるんだ?」
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まとめ:世界は広い
てなわけで、ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』から言語に関する部分をかいつまんで紹介した。
僕のような言語オタクでなくとも、ピダハンたちの脅威深い文化についての豊富な描写を見ることができる。
たとえば同じ人でも途中で名前が変わるとか、宇宙をいくつもの層でできていると考えてたりとか。
第二章の「言語」の部分は、言語学の知識がなければあまり楽しめないかもしれないが、第一章だけでもじゅうぶんに楽しめると思う。
以上。
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