カテゴリー名「読書」改め、「乱読メモ」にしました。ここでは僕が最近読んだ本についてつらつらと書いていきます。今回はその第一弾。

「乱読」と言いつつ最近は少しテーマを絞って読んでいるのは内緒。主に歴史(特にヨーロッパ)や宗教について読むことが多いかな。

今日紹介するのは、星野博美著『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』です。

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圧倒的なボリュームでキリシタンと宣教師達の活動・生活に迫る本

これだけボリュームのある本を読んだのは久しぶりだった。

正直に言うとこの本を借りる時は「数日くらいでぱぱっと読んじゃおう」くらいの軽い気持ちだったのだけれど、全く持ってとんでもない話だった。

この本は著者が(弦楽器の)リュートに出会い、教室に通いながら練習するところから始まり、長崎や熊本の潜伏キリシタンに関する遺跡を巡り、多数の書物を紐解きながら、戦国から明治時代初め頃まで日本のキリシタンがどのように暮らし、迫害を受け散っていたかを綴っていきます。その裏で渦巻く、各国各修道会の思惑

何に圧倒されたかというと、キリシタン達に対する著者の熱意。多くのキリシタン達が暮らしていた(そして今も暮らしている)長崎や熊本の地を訪れたのはもちろんなのだけれど、参照した文献の数がなかなかえげつない。今や書店では手に入らないような古書(しかもかなり高価な)にまで手を伸ばしているところを見ると、何をがそこまで突き動かしたのかと思う(無論本に書いてあるけど、僕にはどうも実感がわきません笑)。

そして本書の最後で、著者がスペインへ渡り、日本で活動した宣教師たちの故郷を訪ねる様子が書かれています。彼らの中には故郷でもはや忘れられてしまった者もいれば、村民全員の尊敬を受けている者、自身の名を冠した聖堂が故郷に建てられた者がいて。ひとくちに宣教師といっても、生まれ故郷から所属する修道会、そして死後の扱い(?)まで様々なんだな。

しかし日本で布教活動をした宣教師にバスク出身の人が多いのは興味深い。

十分にグローバルだった500年前

日本での布教をめぐっては、スペイン対ポルトガルと国レベルだけでなく、イエズス会と托鉢修道会、フランシスコ会など各修道会どうしの思惑も絡んでいました。

僕らは戦国時代から江戸時代にかけてキリスト教の宣教師が日本に来たことを習うけれど、どうも「宣教師」を十把一絡げに扱う傾向がある気がする(少なくとも僕はそうでした)。しかし一口に宣教師といっても決して一枚岩ではなく、所属する修道会やそのバックにいる国も大抵異なっている。

日本での布教の裏では色々な事情が渦巻いているわけだ。しかも地球規模で。

今はグローバル化された時代とかなんとか言われるけども、500年前だって十分グローバルじゃないか。もちろん、現在ほど色んな人が容易に国境を超えたり他大陸に行ったりできたわけじゃないけど。

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潜伏キリシタン関連遺跡の世界遺産登録。果たして喜ぶべきなのか

長崎といえば真っ先に頭に浮かんでくるのが、ユネスコの世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。長崎や五島列島の各地、そして熊本の天草地方にある12の遺跡が登録されている。

世界遺産登録のニュースを聞いたときは、日本の世界遺産の数が1つ増える、と無邪気に喜んでました。

本書によればキリシタンに関する遺跡はこれよりもずっと多いようで、もちろんこの12の遺跡に含まれないものもたくさんある。例えば大村にある鈴田牢とか放虎原殉教地跡とか。ただし公式サイトの説明を見る限りは、「潜伏キリシタン関連遺産」はキリシタンの「迫害」や「処刑」をテーマにしていないみたい。

確かにこれらの史跡が世界遺産に登録されることで日本のキリシタン迫害の歴史が思い出されるのはいいことだと思う。ただその歴史を無視してただの観光地になってしまうんなら、現地に資金が齎されて遺跡の保持等に役立つ一方、ちょっと違和感が拭えないような気がする。

……とはいうものの、長崎へは行ってみたいし、この地域の潜伏キリシタン関連遺産にはぜひ訪れてみたいと思う。

以上、星野博美著『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』の感想でした。

文庫版出てたんだ。知らなかった。

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